【映画『開戦前夜』続報】NHKスペシャル『シュミレーション~昭和16年夏の敗戦~』における歴史改変は、なぜ「大河ドラマ『豊臣兄弟!』の暴走」以上に深刻な問題なのか

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以前、「映画『開戦前夜』を観て:戦争へ突入する時代の『空気感』を描いた傑作」という記事を書きました。

その中で、劇中で“模擬内閣”に圧力をかける存在として描かれる板倉大道陸軍少将(「総力戦研究所」初代所長の飯村穣陸軍中将がモデル)の描写について、史実とかけ離れているとして、遺族(元フランス大使の飯村豊氏)から訴訟を起こされている点に触れました。

その際は、「原作である猪瀬直樹氏の『昭和16年夏の敗戦』を読み直し、双方の主張を調べた上で改めてまとめてみたい」とお伝えしていましたが、今回、原作を読み直し、双方の主張や事実関係も整理してみましたので、改めてこの問題の本質について書いてみたいと思います。

原作『昭和16年夏の敗戦』(猪瀬直樹著)を読み直して

猪瀬氏の著作を読み直して真っ先に感じたのは、「遺族の方々が激怒されるのも当然だ」ということでした。史実における飯村穣中将の姿と、作品内で描かれている「板倉少将」の像は、あまりにもかけ離れています。

ドラマや映画といったエンターテインメント作品を創るという観点から言えば、「軍部や上層部の論理を優先し、国家に都合の悪い事実を抑圧・もみ消そうとする権力者」に対し、「それに屈することなくあくまで客観的な事実を主張する若手研究者たち」という対立構造で描いた方が、物語としてドラマティックな緊張感が生まれ、エンタメとしては面白くなるのは間違いありません。

※もっとも、映画を観たときにも思っていたのですが、「わざわざそんなことをするくらいなら、そもそもそんな研究生を選ばなければいいだろう」というツッコミが容易に生じ得ますけどね・・・・。研究生の人選の権限は、研究所側にある訳ですから。

しかし、史実の飯村所長はそうした抑圧的な存在では全くなく、若手研究生たちが導き出した「日本必敗」という客観的なシミュレーション結果に対し、圧力をかけるどころか、その自由な議論を支え、客観的知見を尊重した人物でした。

「ドラマティックなストーリーを創りたい」という制作者側の都合によって、こうした人物が、不都合な報告を隠蔽しようとしたり、「最前線に飛ばされるぞ」と研究生を裏で脅迫したりするような、極めて陰湿で卑劣な権力者へと改変されてしまっているのです。

訴訟の概要:何が争われているのか

本件は、2025年8月に放送されたNHKスペシャル『シミュレーション~昭和16年夏の敗戦~』のドラマパートを端緒としています。(「NHKオンデマンド」で視聴しようとしましたが、係争中ということで、現在配信が停止されています。ですので、NHKスペシャルでも映画と同じような描かれ方がされているという前提で以下記載しています。)

原告である遺族側は、「板倉少将」という架空名が使われているものの、歴史的事実として当時の所長は飯村穣氏ただ一人であり、一般視聴者が同氏と特定できる構造になっていると指摘しています。その上で、ドラマ制作の都合で史実と真逆の陰湿な言動をとる人物として描かれたことは、「故人に対する重大な名誉毀損」であり、「遺族の敬愛追慕の情の侵害」であるとして、NHKおよび番組関係者を提訴したというものです。

「表現の自由」とモデルの権利~過去の名誉毀損訴訟との比較

実在の人物や出来事をモデルにした表現作品を巡る裁判としては、三島由紀夫の『宴のあと』事件や、柳美里の『石に泳ぐ魚』事件などが有名です。

これらはいずれも、小説という「創作物(文学作品)」において実在の人物をモデルにした際、どこまで「表現の自由」が認められ、どこからが「プライバシー侵害や名誉毀損」にあたるのかが争われた裁判です。
これらの裁判により、「たとえフィクションや創作という形態をとっていても、実在のモデルが容易に特定でき、その人物の名誉やプライバシー、人格権を著しく侵害・歪曲する表現は許されない」という判例が確立しています。

今回の映画版において、製作委員会側は、「作中の人物はあくまで架空の創作であり、当時の時代背景を描くためのフィクションだ」という、「創作物における表現の自由」を根拠とした主張を行っています。
しかし、最高裁まで争われた『石に泳ぐ魚』などの裁判の判例によれば、「架空名に差し替えた」、「フィクションと注記した」としても、それをもって特定可能な実在人物の史実や人格を著しく歪曲して描いてよいということにはなりません。作品としての「創作の自由」を主張する製作者側の主張は、このような判例に照らすと、危うい主張と言わざるを得ません。

法的な観点での是非については、私は専門家でないので分かりませんが、このような法的な観点から離れても、何より今回の件が深刻なのは、この過剰なフィクションとしての表現が「NHKスペシャル」という報道・ドキュメンタリー番組の最高峰とされる看板の下で放送されてしまったという点です。

問題の本質:なぜ「NHKスペシャル」での放送がダメなのか

映画の公式HPに掲載された製作者側の見解(「特定の個人を糾弾する意図はなく、表現の自由の範疇である」という主張)は、もしこれが最初から単体の「娯楽映画」として劇場公開されただけであれば、一定の説得力があるロジックとして成立し得たかもしれません。

しかし、本件の最大かつ根本的な問題は、これを先に「NHKスペシャル」という枠組みで放送してしまったことにあります。具体的には、以下の3つの問題が指摘できると思います。

1. 視聴者の信頼感(「NHKスペシャル=厳密な事実に従った報道」)

「NHKスペシャル」は、NHKが持てる取材力・検証力などを結集して制作する看板報道・教養番組のブランドです。一般のバラエティや娯楽重視の民放ドラマとは異なり、視聴者は「NHKスペシャルで放送された以上、徹底的な裏付け取材と厳格な史実に基づいているはずだ」という前提(権威性と信頼感)を持って視聴します。

そのため、ドラマ部分に大きなフィクションや実在人物への不当な創作・改変が混ざっていても、視聴者はそれを「歴史的事実」として受け取ってしまう危険性が極めて高いと考えられます。

2. 「ドキュメンタリーとドラマの併用」による混同リスク

本番組は、ドラマパートとドキュメンタリーパートを組み合わせた構成(いわゆるドキュメンタリードラマ)だったそうです。そして、ドラマ部分では特定の人物(実在の所長を模した人物)を陰湿かつネガティブに脚色しておきながら、直後のドキュメンタリーで「実際の人物像とは異なる」とナレーション等で補足するという手法が取られたのことです。しかしこれでは、報道枠でありながら、ひとつの番組内で「事実」と「創作」の間に著しい乖離や一貫性の欠除を生じさせており、視聴者を誤まった印象を与えたとの批判は免れないと言わざるを得ません。

3. メディア表現における倫理と責任

映画やドラマであれば「演出上のフィクション」として許され得る表現であっても、公共放送で報道番組の最高峰とされる「NHKスペシャル」の冠の下で流された場合、その社会的影響力や不当な印象の固定化(パブリック・イメージの決定付け)は計り知れません。

外部映画監督の創作性を尊重することと、公共放送・報道番組としての事実検証(ファクトチェック)責任との間でバランスを崩し、NHKスペシャルという冠の倫理基準に照らせば非常に際どい企画を通してしまった点に、NHKの組織としての構造的な過ちがあったと思われます。

「豊臣兄弟!」の歴史改変と何が違うのか?

 私は以前から、NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』についても、「柴田勝家の最期を身投げとして描く」といった過度な歴史改変や時代考証の無視に対し、「改ざん的演出だ」と強い違和感をブログで指摘してきました。
『豊臣兄弟!』の改ざん的演出に関するブログ記事は、こちら

 しかし、今回のNHKスペシャルの問題は、『豊臣兄弟!』の問題とは、決定的に「質」が異なる問題です
 大河ドラマにおける演出の乱れは、極論すれば、所詮は「娯楽・エンターテインメント作品における時代考証の軽視や悪ノリ」の範疇にとどまります(それ自体も問題だとは思いますが)。
 対して、今回のNHKスペシャルの問題は、近現代の歴史(昭和)において実在した特定の人物の名誉を、報道番組の最高峰とされる番組の冠の下で直接的に傷つけたという点にあります。

 大げさに言えば、これは「公共放送・NHKの報道機関としての倫理と存在意義そのもの」が問われかねない問題と言っても過言ではないでしょうか。

 「ドラマという形態をとれば、あるいは『フィクションです』と断り書きさえ入れれば、物語を面白くするために史実をいくら捏造しても許される」というNHKの根深い体質。(繰り返しになりますが、大河ドラマ「豊臣兄弟!」の歴史改変(改ざん)の問題にもつながる体質です。)

 裁判の行方とともに、公共放送が果たすべき責任について、私たちは引き続き厳しく注視していく必要があると考えています。

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