本日の読売新聞の国際面(第6面と第7面)で、中国の文化大革命が大々的に取り上げられています。
1976年9月9日に毛沢東が死去し、10月に江青らのいわゆる「四人組」が逮捕されたことで、約10年間にもわたり続き、中国に大混乱をもたらした文化大革命が終結して今年で50年となるということで、大々的に特集記事が組まれたものです。
記事では、毛沢東の反省から生まれた「集団指導体制」や「国家主席の任期制限(2期10年)」が、現在の習近平政権の下で相次いで撤廃され、時計の針が巻き戻されている現状が詳しく解説されています。指導者の交代ルールを欠いたまま異例の長期政権に突入した現状に対し、「習近平政権の手法は、文化大革命を発動した毛沢東の絶対化や個人崇拝の復活と酷似している」という識者の強い危機感が込められたコメントも掲載されており、非常に考えさせられる内容となっています。
それはさて置き、かつて朝日新聞が、この文化大革命について、その暗部(権力闘争、知識人の迫害、人権侵害、社会・経済の大混乱など)にはほとんど触れず、極めて肯定的・賛美的な文脈で報道していたことをご存じでしょうか。
実像を伝えた読売新聞など他紙が追放される中で、毛沢東を礼賛し続けた朝日新聞
当時、日本の新聞各社の文化大革命への対応は大きく分かれていました。
例えば読売新聞は、文化大革命による社会・経済の混乱や紅衛兵の過激化、権力闘争の実像を早々に冷徹に報じたことで、中国当局の逆鱗に触れ、1967年に北京特派員が国外退去(追放)処分となりました。中国批判を許さない当局の制約に屈せず、現地取材網を失うリスクを冒してでも実態を報じたのです。産経新聞など他紙も同様に追放や撤退を余儀なくされました。
対照的だったのが朝日新聞です。他社が追放される中で、同社は中国当局の意向に沿うことで現地に留まり、一時「北京特派員の一社独占」状態を作り出しました。そして紙面では、まるで『人民日報』の日本語版かのように、毛沢東礼賛を繰り広げていたのです。
具体的には、
・毛沢東語録を掲げる大衆を「理想の社会主義運動」と称賛
・紅衛兵による暴力や狂気を「過剰なまでに純粋な改革運動」と肯定
・本多勝一氏による「中国の旅」連載など、中国当局のお膳立てに乗ったプロパガンダ的記事を展開
なぜ、これほど偏った報道が行われたのでしょうか。背景には主に以下の要因がありました。
「北京支局の維持」を最優先した報道の萎縮
当時の「日中記者交換協定」の下、中国政府は「中国批判を行わないこと」を滞在の条件としていました。朝日新聞は「真実を報じること」よりも「現地取材網(北京支局)を維持すること」を優先し、当局の発表をそのまま流す広報紙と化していきました(報道機関として致命的な行為ではないでしょうか)。
経営トップの意向と左派文化人の空気
当時の朝日新聞社長・広岡知男氏自身が強い親中派であり、経営トップの「日中友好優先」の方針が紙面を縛りました。さらに、当時の日本の革新系文化人や左派の間にあった「毛沢東主義への熱狂と理想化」という言論界の空気も、この偏向報道を強く後押ししました。
文化大革命終結後、朝日新聞の当時の報道は「北京特派員の枠を守るために真相から目を背け、中国政府の宣伝機関と化していた」と内外から厳しい検証と批判を受けることになりました。のちに同社も当時の報道姿勢に偏りや反省点があったことを自社紙面や検証記事等で認めています。
朝日新聞は、戦前・戦中の軍国主義・戦争の大煽動、従軍慰安婦報道、サンゴ落書き事件など、様々な「黒歴史」を抱えていますが、この文化大革命を巡る報道もこれらに匹敵するものだと思います。本来、権力を監視すべきジャーナリズムが、外国の独裁権力の「宣伝工作」に自ら加担してしまった罪は極めて重いと言わざるを得ません。
文化大革命は、終結して50年ということで、既に歴史の中に風化しつつあります。
しかし、日本を代表する大新聞社が、かつてあれほど偏った報道を平然と続けていたということを、私たちは決して忘れてはならないと考えています。


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